お茶のはじまり〜中国におけるお茶の原点

 

「中国人は小さな杯からすする。日本人は泡を立てる。アメリカ人は冷やして飲む、チベットではバターを混ぜ、ロシアではレモンを添え、北アフリカではミントを入れる。アフガニスタン人はカルダモンで風味を付ける。アイルランド人とイギリス人はミルクと砂糖を入れて朝、昼、晩と何かにつけて飲む。インド人はコンデンスミルクを加えて煮詰める。オーストラリア人はビリー缶という金属製の鍋で淹れる」   「お茶の歴史」ヘレン・サベリ著より引用
世界各地でそれぞれの文化の一つとなっているお茶。その歴史を紐解くと、中国がルーツになっていることはよく知られています。そのお茶の勃興期の中国で、どのようにお茶が進化して受け入れられていったのか。
お茶を販売するものとして、お茶についての歴史を体系的に理解し、知識として知っておくことは意義があると思い、さまざまな書籍で勉強してきました。理解したものをこうして書くことで、お茶についてより詳しく知りたいという方々へ読んでもらうことに価値があると思い、ここに記しておくことにしました。
ここでは、「中国茶・五感の世界-その歴史と文化」孔 令敬著という本を参考、引用してまとめています。より詳しく知りたい方は上記の本を参照されることをおすすめします。



 茶の樹の正式名称はカメリアシネンシスといって白い花を咲かせるツバキ科の一種。その種類は大まかにいって、主に紅茶用に使われる大葉種(アッサム種)と緑茶に向いた小葉種(中国種)に大別されています。これは茶樹が長い時間をかけて、その生育環境に自分を適応させた結果らしい。一億五千年前から起こり始めたヒマラヤ山脈の造山運動によって、中国西南部地域では雲貴高原が隆起。その断層面に四川地方が沈降して盆地が出来る。その落差はなんと5000メートル以上。それによって、原種茶葉樹がこの地域では、寒帯・温帯・亜熱帯と熱帯などの気候が異なった環境に分別され、長年の漸変進化を経て、今日の耐寒性の温帯小葉種と主に熱帯・亜熱帯に成長する大葉種の、二つの変種に選り分けられた。

 大葉種というくらいだから葉っぱが大きい。我々が目にするお茶の葉(小葉種)が7〜8センチくらいなのに、その倍の15センチはある。大きいだけでなく、渋味成分のカテキンがたくさん含まれている。この豊富なカテキンが発酵(正確には酸化)して紅茶になるときに、必要になってきます。もともと同じ木が空気中の酸素と反応して酸化してできたのがウーロン茶や紅茶です。反対に熱を加えて酸化させないでつくるのがわれわれがお茶と呼んでいる緑茶。おなじ原料からつくられるこの3つのお茶は、歴史の古い順に並べれば、緑茶、ウーロン茶、紅茶。生産量なら紅茶、緑茶、ウーロン茶。そして香り(香気成分)の強いものから見ると、紅茶、ウーロン茶、緑茶の順となって、緑茶は本来、味(うま味)を楽しむものといえそうです。
 
  お茶のルーツは中国で、だから歴史も古く、つくられるお茶の種類も多い。その中には、あまり聞き慣れないお茶もあります。緑茶、白茶、青茶、紅茶、黄茶、黒茶、花茶。緑茶と紅茶はわかりますよね。黒茶はプーアル茶のことです。それから青茶というのは、半発酵茶(ほんとは半酸化茶)を示し、つまりウーロン茶です。花茶は、ジャスミン茶や桂花香ウーロンなど花で香り付けをしたお茶。白茶は、緑茶とウーロン茶の間くらい。ほんの少しだけ発酵(酸化)したお茶。黄茶は緑茶とプーアル茶の間、緑茶を後から発酵させたもの。

 とまあこんなふうにいろいろある。中国は広いし、漢民族以外にもたくさんの少数民族がいるし、気候も地形も変化に富んでいるから、さまざまなお茶が作られていったことは想像できます。でも、もちろん最初からたくさん(の種類のお茶が)あったわけではない。そして意外なことに(というか僕が知らなかったということですが)、ウーロン茶や紅茶の歴史は浅いのです。また、中国全土でお茶が作られているわけではなく、福建、雲南、広東、湖南、浙江といった南から揚子江流域あたりまでで、北京のある華北やチベットなどでは商品としてお茶が流通してから飲まれるようになっていきました。

中国茶黄金桂茶葉

 中国の伝説によれば、茶の物語は神話時代の帝王神農(しんのう)にはじまる。神農は、医療と農耕の神といわれ、病気の予防のため生水は沸かしてから飲むように、民に命じていた。ある日、神農が水を沸かしていると、風に飛ばされた数枚の葉が鍋に偶然舞い落ちた。飲んでみると、風味が良いばかりか、体に力がみなぎってくるのが感じられた。

それは茶の樹の葉だった。神農は民に、広くこの木を植え、葉を煎じて飲むように命じてこう言った。「茶を飲めば、体に活力が湧き、心は満たされ、決断力が増す」

 最初は、原生茶樹を枝ごと切り落とし、そこから葉っぱを摘みとって、煮出して飲んでいた。その後、さまざまな生活要素を取り入れることによって、文化的な色彩が充実し、いろんな製茶手法とそれに対応した飲茶作法が考えられる。その代表的なものは、唐の餅茶製法とその煎茶作法、宋の団茶製法と末茶による点茶法、そして明の葉茶製法と淹茶飲法など。これらの製茶法と飲法は、それぞれの時代の生活様式と製茶技術ばかりでなく、その時代の人びとのお茶に対する考え方をも反映していて、お茶の歴史は、それぞれの時代の生活史でもあります。
 

 中国茶専門店へ行くと、円盤のような形をしたプーアル茶を見かけますが、そういった固形茶は、唐の時代(あるいはそれより前)からありました。採ってきた粗大な茶の葉を、重湯で粘りを付けながら、餅の形にする。飲む時は、まずその表面が赤くなるまで炙る。それから搗いて粉末にし、磁器などの器にいれて熱湯を注ぐ。そのうえで、葱や生姜、蜜柑の皮などを混ぜて飲むと酔いと眠気を醒ます効果がある。こうしてお茶を固める手法は、中国の製茶史において、後の宋代にいたるまで主流となっていました。唐代(唐の時代)までは「餅茶」といわれ、宋代では「団茶」と呼ばれていた固形茶の製茶技術はずいぶん昔からあったもので、運搬しやすく、長期保存もできるので、商品として流通したり、または献上品として納めたりするのにも最適でした。製茶で茶の葉を固めると、中の空気が追い出され、カビが生えにくくなる利点があるので、中国では今も生産しています(国内の遊牧地区への供給や遊牧国への輸出用が中心)。
 

 ところで、中国には昔から医食同源の思想があります。お茶を含む全ての植物は、伝統的薬理学によって、甘・酸・苦・辛・塩辛の五味と、温・熱・涼・寒の四性に分けられている。病に罹ったら、その症状が熱性か寒性かに応じて投薬する。日常の飲食でも、寒熱のバランスを取り、偏ったものにならないように気を使う。「お茶は、味が甘苦で、薬の性は微寒無毒である。腫れ物や瘡、痰、渇き、昏睡などの症状をなくし、小水をよくする。・・春に採る。お茶は気を下げる働きがあるので、消化を助ける。飲用するときは、茱萸、葱、生姜を加えるとよい」唐の薬書「唐本草」より。

 茱萸と葱と生姜は、全部熱性の植物で、それをお茶に混ぜるのは、お茶が持つ寒性を中和するため。これこそが体に優しい合理的な飲み方であると、当時の中国人は思っていた。ところが、このような飲み方は、後に茶人の陸羽によって排斥されます。彼に代表される文人や僧侶たちは、庶民の日常生活に深く浸透していた漢方的な飲み方を、徐々に新しい飲み方に変えていくのです。

中国茶ジャスミン茶茶葉

 中国のお茶の普及には、さまざまな要素が考えられるでしょうけど、煎じ詰めるとこの陸羽という人のお茶に対する情熱と、禅寺における修行僧が眠気覚ましにお茶を服用したことの二点に絞られるように思えます。坐禅の修行中にやってくる睡魔に対してお茶の覚醒作用(カフェインの作用)はとても有効で、僧侶はお茶を飲むことで眠らずに座っていられた。やがて仏教とお茶の結びつきは、中国仏教の特徴の一つとなり、中国仏教の伝播に伴って、お茶も産地以外のところまで(日本に伝えた最澄、空海、栄西もそう)運ばれた。また、修行と寺院運営の双方の需要から、寺院自身がお茶の栽培と製茶に乗り出す。その結果、数々の寺院銘茶が生まれ、寺院の有名度も高められた。特に規模の小さい山寺にとってはお茶は貴重な財源になっていました。

 どうして寺院茶園には銘茶が多いのかというと、寺院の気候と立地条件が茶樹成長の地勢条件と関係しているから。日の当たる山野の崖で、しかも日光の直射を遮る陰のある風土質の土壌でなければ、最高のお茶は育たない。中国の寺院茶園は、その多くが山間部にあり、風化質の土壌であること、互生する林のなかにあっては直射光が当たらないこと、山の上では霧が生じやすく、湿度が高いこと、日夜の温度差が大きいことなどの条件が揃っているからこそ、絶品の銘茶を産出したのでしょう。

 
 さて、陸羽ですが、この人の功績はやっぱり大きいと思う。史上初めての茶の専門書「茶経」を著し、お茶に関するさまざまな知識を紹介する一方、正しいお茶の煮方(当時は煎じていた)や飲み方を推奨。彼のたゆまぬ提唱により、唐代の文人と官僚の間で喫茶の形式化が進み、飲茶が情操の薫陶と品格の向上に結びつけられるようになった。「茶道」という言葉も、陸羽のお茶を指す言葉としてこの時代に生まれています。とにかく、その情熱がすごい。長い時間をかけて中国南方の茶産地を歩きまわり、茶樹の状況や製茶の種類などを調査し、そうした成果が茶経に現れている。茶樹成長の自然条件・栽培方法・茶葉品質の優劣・茶の効用、茶摘みから製茶方法・製品の品質鑑定といったお茶作りについて。また、茶の飲用による精神面と道徳面の効果を宣揚する一方、お茶を飲むときの道具や煎じ方から飲み方にいたる喫茶作法を規範化する。これらはすべて、彼が幼少の頃から馴染んでいた(禅寺の養子になっていたから)禅寺の喫茶を根幹に独自に考案されたものだそうです。そしてこの陸羽の考え方は日本の茶道にも大きな影響を与えていると思うなあ(その陸羽の茶道も現代の日本茶道も、根底を支えているのが禅院の茶礼ということになる)。

 茶経に書かれている、枝ごと切り落とし、その場で煮て飲むような未処理の「粗茶」はともかく、発酵させない蒸青緑茶で粉末状の「末茶」と葉の形を保ったままの「散茶」は、宋の時代に主流になっています。釜炒りで酵素を殺すやり方は唐の時代からあったけれど、それが急速に普及したのは、ずっと後の明の時代で、それ以降、中国の緑茶はほとんど釜炒り茶になりました。

 陸羽は、なんとお茶を点てるときの道具まで設計している。陸羽設計の風炉(湯沸かし)は、外形は古代中国で祭祀用の器具である鼎の形をしていて、銅製か鉄製。風炉の壁には風通しの口を三つ設けてある。鼎は風と火を司るからエネルギーの源であり、それに水を司る坎を加えて、茶煎じる水・風・火の三者関係を示している。茶葉は土に生える茶の樹から採り、鉄製の風炉に架けた鉄製の釜に入れ、火の力で水といっしょに煎じられているから、お茶は金・木・水・火・土の五行をあまねく整えている飲みものであり、飲むとすべての病気を取り除くことができる。「体均五行去百疾」とはこの意味。このように風炉の設計は儒教の倫理観念とその宇宙観に基づいて行われた。
 
中国茶茶器

 話が飛びますが文化の成熟というか伝播というか、そういうことが起こるためには、大国の果たす役割がとても大きいようです。紅茶が世界一飲まれるようになったのは、イギリスが元気だったからだし、珈琲もフランスが活躍したときに普及している。そして中国でお茶が盛んに作られ、飲まれたのも漢民族国家で力のあった唐と明のとき(宋は短期政権)だった。まあ、そういうものなんでしょうね。ところで、その元気だった唐に留学した遣唐使がやはりお茶を日本に持ち帰っています。ただ最澄や空海は、お茶そのものを持ち帰っただけで、お茶の作り方を学んできたわけではなかった。そのため、日本でのお茶作りは、鎌倉時代に宋へ渡った栄西(喫茶養生記を著す)を待つことになります。
 
 宋の時代になると唐の「餅茶」に対して、宋の固形茶は「片茶」または「団茶」と呼ばれ、それは餅茶よりもずっと精巧に作られる。砕く手法は唐の頃は蒸した茶葉を臼に入れて杵でついたけど、宋ではすり鉢でするようになり、より細かく砕くことができるようになった。またお茶の飲み方もおおきく変わる。唐の頃、茶釜で煮て飲んでいたお茶を、宋では沸かしたお湯を、茶末のうえに直接注いで飲むようになる。その際、泡が出るように茶匙で力強く撹拌し(その後、撹拌用の道具は茶筅に変化)、湯と茶末とが溶け合ったどろっとしたお茶を作る。こうして唐の頃茶釜で煮たのを煎茶、宋に入って茶碗で撹拌するのを点茶とよびました。こんな風に固形茶は相変わらず製茶されていたけど、手間のかからない散茶(葉の形を保ったままのお茶)の方が、人気となっていきます。製造工程が簡単なため値段も安く、幅広い消費者に対応できたので。宋の時代のお茶作りでポイントになるのは、揉捻という工程が加わったことです。これは固形茶のみならず、散茶にも適用されました。揉まれて製茶されたお茶は、飲用するときにその有効成分が溶け出しやすくなるので、搗く(餅茶)とか擦る(団茶)という粉砕工程のない散茶にとっては、なくてはならない技法でもあった。この革新的な技法(揉捻)によって、「煎茶」が「点茶」、そして後の「淹茶」(急須に茶葉を入れ湯を注いで飲む方法。日本では煎茶とよんでいるけど、中国では唐の煎茶と区別して淹茶または泡茶という)へと製茶技術の進歩と喫茶習慣の変化に対応した新しい茶が生まれました。

 また複雑で時間と労力のかかる粉砕と成型の両工程が省かれたことは、製茶コストを下げ、さらに散茶を材料としたそのほかの種類のお茶の開発も可能にしたのです。例えば、ジャスミン茶に代表される薫花茶や、散茶から派生した前発酵の烏龍茶系の「青茶」、そして後発酵の黄茶・黒茶などです。これらのお茶は宋の時代にはまだ作られていないけど、後の薫花茶の開発に繋がるような試みがすでに見られていました。
 

 型で固めず、葉の形状を保ったままの「散茶」は、日本にも伝わります。宋から帰国した栄西をはじめとする留学僧は散茶とともにその製法も招来する。51歳で4年の留学の後帰国した栄西禅師は1191年茶種を持ち帰り、筑前の背振山にその第一号を植えたところ、芽が吹き出し、これが日本茶樹の元祖になります。その後、これらの茶種が京都の栂尾山に植栽され、近畿地方を中心にいち早く寺院茶園が形成される。これで衰退していた喫茶文化を根底から立ち直らせる条件が調っていく。なぜかというと消費用のお茶を自力で生産できるようになったからです。また栄西の学んだ仏教が、最澄や空海ら平安僧の理論的な宗派ではなく、実践を重んじる禅宗であったことも、茶園の開設を可能にした要因のひとつでしょう。諸々の仏教宗派のなかで唯一労働と生産を排斥していないのが、禅宗なので。

 栄西が伝えたのは、どんな製法の「散茶」だったのか、というとそれは喫茶養生記に明らかで、茶の名称、茶樹や茶の花・葉の形状や、効能・茶摘みの時期・季節・採り方・製法まで。とりわけ茶摘みと製法については実際に宋で自分の目で確かめた情報が書かれていました。飲み方に関しては、葉のままで煎じて飲むのを「茗茶」といい、粉末にして飲むのを「末茶」というけど、後者の「末茶」がこの時期の日本に伝わり、茶道成立の基盤を作っている。いずれにしても、この散茶の製法と飲用法が、今日に至るまでの日本茶の性質を決定しているといえそうです。
  
中国茶淹れ方

 宋から元に変わっても、宋と同様固形茶と散茶の両方が作られ、飲まれていましたが、散茶がその飲み方によって、末茶と葉茶にわかれていることが継承されたものの、この時期から、末茶をつかった「点茶」の飲み方が廃れはじめます。粉末にする作業が煩わしいからでしょう。そうしてだんだんと中国民間の喫茶が、末茶からより簡便な葉茶に切り替わっていく。葉茶は二次加工を要さない。しかも湯を直接注いだり、または煎じたりして飲用できるので、元の時代から天下の大勢となっていく。その結果、唐末の仏教寺院から生まれて500年も続いた「点茶」の作法は、中国でその寿命を終えようとしていた。幸い、日本の「茶道」ではその伝統を依然として守っているといえそうです。

 明の人たちは「末茶」の面倒な立て方を敬遠し、湯を注いだらすぐに飲める「淹茶」の方を歓迎した。茶末と一緒に飲む習慣がなくなり、味覚も変化してくる。粉末にされる前の「葉茶」を使えば、茶の葉と湯とがきれいに分離できます。泡がぶくぶくあふれでる、お粥のようなどろっとした喫茶は、もはや明の時代では明らかに時代遅れになっちゃった。明風の喫茶は、茶の出汁を飲むことでした。

 明の時代の初期から「葉茶」の製法も変化しつつありました。蒸し製茶は相変わらずつくられていたけど、新しく流行を見せ始めた釜炒り製茶が、それに取って代わろうとしていたのです。明代以前の製茶は、固形茶にしても葉茶にしても「蒸す」製法が中心。釜で炒って製茶する試みは唐代にもあったけど、それはごく稀で、山僧の自家製茶程度のものだった。ところが、この手法による製茶が明の時代には大いに発展します。蒸すより炒った方が、乾燥と揉捻と成型が一体となっているので、製茶の工程と時間が短縮される。と同時に、炒り製茶独特の熟した栗のような芳しい香りを楽しむこともできるから。この香りが、茶末と一緒に飲む「点茶」の飲法をやめさせたのか、それとも茶の葉を浸けた湯だけを飲むようになってから、炒り製茶が広がったのかはわからない。はっきりしているのは、その製法と飲法が相まって、短時間のうちに炒り製茶が中国大陸の南北を席巻するようになったことです。

 
 炒り製茶の作り方は、強火で熱せられた茶鍋に少量の茶葉を入れ、素早く炒める。茶の葉は摘んできたばかりの新芽を使う。半熟状態になったら、取り出して簀の子にひろげ、あおいで熱を下げます。手で少し揉んでから、鍋に戻して再度炒る。次には、弱火で温めた茶鍋に移して、水分がなくなるまで炒るか、または焙炉に入れて焙る。この作り方は、現在の杭州近郊が産地である高級緑茶「龍井茶」とほとんど同じみたい。ということは中国の釜炒り製茶の基本が明の時代に完成したことになります。

 飲み方では、茶壺(急須)の使用が普及する。これは釜で煎じて飲む唐代の喫茶、茶碗で点てて飲む宋代の喫茶とならぶ明代喫茶の特徴で、同時に現代風の喫茶のはじまりでもあります。茶壺に葉茶を入れ、湯を茶碗に注して飲むこの飲用法は、今でも中国(日本でも)茶を飲むときの常用飲法のひとつといえる。こんなふうに中国茶は明に入ってからその製法から飲み方まで、すべてが変革されました。煩雑極まる宋の時代の製茶とその飲み方に対する反動から、明のお茶は簡単明瞭で実用的な傾向が強い。現在までにいたる中国茶の性格は、大体この頃に完成されたといえるでしょう。
 
 葉茶の定着は、必然的にそのほかの種類のお茶の開発にも繋がりました。南宋末期から断片的にみられてきた「薫花茶」はこの時期に独立した銘茶に発展する。茶の葉は、他の香りに染まりやすい性質があり、製茶のときはもちろん保存と飲用の時も、お茶本来の味と香りを壊すようなものは避けられる。歴代の茶人たちが極力気を使っているのもこの点です。この意味で「薫花茶」は、まさしくお茶のこうした性質を逆手にとった製茶といえる。南宋時代蒸し製だった薫花茶用のお茶は、明に入って炒り製に変わり、モクセイ、ジャスミン、バラ、梔子など多種多様の花が使われます。


 ところでおもしろいのは、この薫花茶製造が、後の後発酵の技術発見につながっていることです。薫製用の花は水分が含まれている生花なので、薫製の過程でその水分が茶葉に吸い取られてしまう。特に、直接(間接もある)薫製の場合、容器の中の温度が高ければ、茶葉は自然に発酵してしまう。明の人は薫花茶をつくる過程で、偶然にこうして発酵の技術を手に入れたのでしょう。中国製茶ではこの種の発酵を後発酵といいます。つまり、熱処理で酵素の働きを止められた茶葉は、その後、水熱の環境に置かれることで発酵を起こす。もうひとつは、摘んできた茶葉を熱処理しないで、その酵素を生かして発酵させる前発酵です。ただ、前発酵は人為的な意図が強く、技術的にもむずかしいので、その出現は後発酵よりかなり遅れています。ところで薫花茶は厳密な意味での後発酵茶ではなく、明代初期に開発された正真正銘の後発酵茶は「黒茶」でしょう。それは主にチベットに近い四川で作られていましたが、まもなく湖南・湖北・雲南などの地域に広がっていきました。
 
 「黒茶」の製法は、「殺青」「揉捻」「渥堆あくたい」・「乾燥」の4つの工程からなり、「渥堆」をのぞけば、それまでの緑茶とまったくおなじ。なんだけどその「渥堆」こそが後発酵のポイントといえます。つまり炒るか蒸すかによって「殺青」と「揉捻」の二工程を終えた茶葉を積みあげて、8時間から18時間放置することによって、発酵させるのが「渥堆」。こうしてできあがった「黒茶」は非常に長持ちで何十年も貯蔵できます。「黒茶」の開発は、中国の製茶史において画期的でした。それは外国や産地以外の地域への販路を拡大しただけではなくて、ほんとうの意義は発酵茶の生産がはじまったところにあります。つまりここへ来て、ようやく烏龍茶や紅茶の作り方が模索されはじめるのです。釜炒り製茶がさらに浸透するにつれ、焙じて酵素を殺す「烘青こうせい」製茶、乾かして酵素を殺す「晒青さいせい」製茶などが普及し、発酵茶の生産と開発が進む。明の後期から今の福建省あたりでは、初期の烏龍茶や紅茶につながるような前発酵の製茶が行われるようになっていきました。

 「松羅茶や龍井茶などは、みな炒って製茶し、焙炉で焙じないので、その色も純正。それに対して、福建省武夷の茶は、炒ると焙じるを兼ねて行う。煎じ出したお茶は赤みがかった緑色の湯となる。緑は炒った色で、赤色は焙じた色。茶葉は摘んできたら、まず広げる。それから茶葉を振る。芳しい香りが出始めた頃を見計らって、すぐ炒りに入る。早すぎてもいけないし、遅くてもいけない。炒って焙じた後、粗い葉や蕾などを取り除いて均一にする」

 この製法は今の烏龍茶とほとんど変わらない。茶葉を広げるというのは、萎凋のこと。1~2時間夕日に晒すことで、水分を減らし発酵の条件を整える工程。次の茶葉を振る工程は「揺青ようせい」また「倣青さくせい」と呼ばれ、烏龍茶をつくるうえでもっとも重要な工程です。茶葉をふったり揺すったりして互いにぶつけ合い、ときには手で打ち合わせて、葉の縁の細胞だけを破壊し、その部分の発酵を促す。独特の香りがでたらそれは発酵が進んできた証拠で、素早く炒って発酵を止める。そうすると、中央部が濃い緑色を保ったままで、葉の縁だけが赤く変色した半発酵の烏龍茶ができあがります。

中国茶サーブ 

「晴れた日に葉を摘む。摘んだ葉は香りが出るまで待つ。熱い鍋で炒る。そのときもうひとりが傍らに立って扇ぐ。炒った葉を出してから、くり返し揉む。さらに三回焙じてできあがり」明代の烏龍茶が、春茶のほかに夏場の茶葉も使っていたことが判る。緑茶よりも原料の茶葉が粗大で、より念入りな揉捻が行われていた。これらは茶葉を放置して発酵させてから熱処理をしています。この種の発酵は前発酵とよばれているけど、ひとたびこの前発酵の技術を手に入れると、異なる種類の前発酵製茶の開発も、それほど時を要さなかった。実際、明代後期から有名な福建の紅茶生産がはじまっています。また同じ系統に属し、発酵の度合いがやや弱い「白茶」も福建の製茶状に登場する。一方、黒茶の生産拠点であった四川や湖南・湖北などの地域で、緑茶の製法に後発酵の工程を組み入れた「黄茶」が作られはじめたのは、清代に入って間もない頃からだと思われます。
 
 お茶がなければ死ぬというのは言い過ぎだとしても、肉食中心の遊牧民は、長期にわたる肉類の摂取で、ビタミンCなどの欠乏によって壊血病になりやすい。そこへきて喫茶は壊血病を防ぎ、消化を助ける働きがあるので、野菜の採れない遊牧民にはお茶はなくてはならない必需品でした。一方供給側の明からみれば、お茶は周辺の遊牧民を牽制する有効な手段。ということで茶馬交易なるものが行われるようになったのです。